嫌な気持ちの先に

何で言ってくれなかったのだろう。

何でやってくれなかったのだろう。

自分に何かしらの影響がある時、特にそう思うことがありませんか。

そんな時には、落ち着いてこう考えてみる。

「きた。神様が私をためしている」と。

第一段階に、まず怒りなどの感情をおさえ、冷静になること。

自分が、自分らしくなければ良い結果にはつながらない。

ひとは誰でも、死ぬまで誰かから学びつづけるもの。

そういう気持ちを失わなわなければ、未来の自分よりもまだまだ未熟なのに、冷静さも失ってしまうなら、結果が大したものでなくなってしまうことは簡単に想像がつきますよね。

そして、それは自分が成長するチャンスでもありますから、それを失ってしまっては、せっかくもうひとつ上の自分になるはずが、今までよりもイメージダウンにつながりかねません。

人間だれしも、子分が思うようにいく人なんていないはず。

よく本などに書かれている成功者も、必ず何かしらの失敗をかさねているか。誰かの成功体験の寄せ集め。

好んで傷つきたい人は少ないと思うので、それくらいに「失敗はつきもの」と思って行動したほうが、成功に近いと感じることが多い。

神様がくれたのは、ボーナスチャンスか。はたまた、今より視野を広げるための試練なのか。

今の自分が正しいと思うほうへ、相手の立場を想像して行動をする。

負の感情がこみ上げる相手だから、その立場になるためには冷静さを取り戻すことが大事。

決して後悔しないために。

せっかく行動した自分が、行動しなかった自分に、おとってしまうかのような結果につながらないように。

では、どう伝えれば良いのでしょうか。

これも、相手の立場になれば簡単なこと。

自分が言われて不快に思ったり、反発したくなるような言動は避ける。

「昨日の敵は、今日の友」という言葉があるように。

仮に敵のような存在だった人でも、味方になってくれそうな言動を全力で心がける。

そうすることで、もしも上手くいかなかった場合にでも、最悪の状況は回避できるとともに、さらに成長するための課題も明確になるはず。

さらには、相手に対する配慮自体が大切だけれど、なかなか出来ないことだから。

それが出来た自分への、自己肯定感にもつながる。

ひとつの問題が、こんなに自分の成長へ影響するなんて、すごいことですよね。

自分と価値観の合った人たちに囲まれて生活すること。

でも、完璧にはなかなか難しい。

生きていくなかで、行動するだけ知らない人とも接触する機会は必ず訪れる。

駅に向かう途中や、立ち寄った店。

集団で歩く学生や家族などのグループ、自転車に乗った人。ペットの散歩をしている人や、マスクを外して歩いている人。

飲食店や、本屋さん。スーパーやコンビニなど。そこで働く人たちに出会う人も多いはず。

旅行や、お出かけをする人なら、もっとたくさん。

何も、仕事だけではないから。自分で居心地の良い環境に身をおけている人は、特にそのような不快感を与えるものに敏感になる可能性もあります。

正義は、人の数だけあると思うから。自分のなかの正義の押しつけで、相手の行動が許せない。

自分に出来ることを冷静にすれば良いのだけれど。マナーやモラル、ルールを守らない人との接触に慣れていないので、つい感情的になってしまう。

自分とは、違う世界の住民。そう思って、接するのも大切かと。

私が、海外で独裁的な国に育った人たちに、そう感じることが多いように。

その国のトップが、そのような印象と環境を与えてしまっているから。そこに住む人たちも同様に思えてしまう。

でも、実は全員ではなくて。なかには、日本の文化に心を打たれ、今も早くまた日本へ行きたい。いつかは、こんな場所で暮らしたいと思っている人もいると思います。

みんな、幸せになるために生まれてきたのだから。

何だかスケールの大きな話になってしまったけれど。

ひとり一人が負の感情を、上手にコントロールして自分らしく、相手を思いやる行動が出来たなら。

その積み重ねが、今よりももっと多くの人を幸せにする世界をつくる。

そう信じています。

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