他力

他力本願という言葉。

ひとまかせとか、人に頼るようにつかうかたがいますが、もともとの意味は違います。

正しくは、「阿弥陀さまの慈悲に頼ります。」ということ。

昔は、身分の違いなどで、仏教との関わりかたも違っていました。

法然上人は、「南無阿弥陀」と唱えれば、どんなひとでも極楽浄土にいけると唱えたかた。

昔の民は、自分に自信がもてず。悪人だから、極楽にはいけないと思っていたひとの心を救うものでした。

もちろん、それをよく思わない宗派のひとがいたため、争いも起きました。

同じ宗派であったなかでも、解釈が変わるなどで、枝わかれしています。

今は、別の宗派と争うようなことはないようですが、自分の宗派を良くいわなくてはいけない。

他の宗派をよく言ってはならないようなことはあるようです。

自分に合った宗派をみつけて、修行し自業自得で悟りをひらく。自力作善というそう。

今は、昔とちがい、観光などで寺院をまわり、さまざまな仏教の歴史にふれることができます。

悟りをひらかずとも、人生において心うたれる学びはあると思います。

みなさんも、機会がありましたら、本を読んだり説法をきくなどしてみると、あらたな気づきが、きっとありますよ。

神社

神様、仏さまと拝むのを、昔テレビなどで見たことがあります。

でも神社は、そもそも地域を守るためにつくられたもの。

願かけすることは、おまじないのようなものだったりします。

そのあとも、自分が一生懸命になれば、叶うかもしれないけれど。

何もしないのであれば、叶う確率もひくい。神だのみ。それで、あの神社は、ご利益がないとか言うのは、罰当たりだと思います。

私も、よく神社へおまいりに行きますが、いつも感謝しています。

昔よりも良いことは、増えた気がします。そしてまた、お礼をいう。その繰り返し。

いつの間にか、そんな習慣になっていました。

昔は、お願いをするだけだったせいか、何かが叶った記憶がありません。

地元の神社だったのに。でも初詣か、お祭りのときくらいでしたが。

年齢をかさね、このような気づきがあること、本当に感謝します。

自力

自力作善。聞きなれない言葉ですが、とても気に入りました。

自分の力で、よいことを作っていく。

先日、久しぶりの再会ができました。

偶然です。

私たちは、もちろん。その方たちも嬉しそうな笑顔でした。

本当に幸せな時間。

うまく言えませんが、価値観のあうひとと集まるのは、こんな感じなんだと思いました。

最近、そういう機会がなかったので、よけい心にささりました。

年齢とか、他人という感じがしない。

家族のような、あたたかく自然な感じ。

いつまでも、一緒にいたくなる。

自分の価値観に気づかされつつ、相手も「そこが一緒」だから、会えてよかったと思ってくれたらいいなと思います。

また再会しても恥ずかしくないよう、毎日を心豊かに過ごします。

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