今日は、植物学の日。
文久2(1862)年。旧暦4月24日、植物分類学者の牧野富太郎が高知県佐川町に生まれました。
生涯を植物研究に費やし、新種などの植物を発見、命名し、「植物学の父」と呼ばれています。
調べてみたところ、かなり刺激を受ける生涯でした。
これでも、かなり省略しているのですが、長文です。
小学校は入学したものの2年で中退、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになりました。中退した理由は、造り酒屋の跡とりだったので、学問が必要とは全く考えていなかったそうです。
植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師だった永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れており、「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」という言葉を残しています。
そして、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙」に出会い、本草学とりわけ植物学に熱中。
自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになりました。
そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、初めての上京。最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学。
22歳の時に再び上京。東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献、資料などの使用を許可され研究に没頭しました。
そのとき、東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送り、図を絶賛する返事が届く。描画力にも恵まれていたようです。
25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎、染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっています。
26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始める。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、植物図鑑のはじまり。マキシモヴィッチからも高く評価されました。
この時期、東京と高知を往復しながら研究者の地位を確立していますが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営は傾いていきました。
1889(明治22)年、27歳で新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけました。
1890(明治23)年、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになります。
その年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし矢田部教授、松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれる。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断しました。
失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えますが、1891年にマキシモヴィッチが死去、実現はしませんでした。
このため高知で、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり上京。
31歳で、矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。助手の月給で一家を養っていたが、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどしていたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある
。
その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、たくさん標本や資料を残しています。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献を研究に熱中するあまり、なかなか返却しないなどから、研究室の人々によく思われず。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。
1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断しています。
1926(大正15)年には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究雑誌』を創刊したが、3号で休刊。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されています。
1912(大正元)年から1939(昭和14)年、77歳まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任しました。
65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けました。
1940(昭和15)年、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行。改訂を重ねながら現在も販売されています。
1951(昭和26)年、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」ができました。
文部省から30万円の補助金を得て、翌年にかけて標本整理が行われた。同年設立された文化功労者第1回の対象者になっています。
1953(昭和28)年、91歳で東京都名誉都民。
1954(昭和29)年ごろから病気がちで、寝こむことが増えました。
1956(昭和31)年12月、高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定。
1957(昭和32)年、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。
墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されています。
ひとつのことに集中すると、これほどのことが出来るのかと驚きました。
縁や運もふくめ、自分のやりたいことが決まっていると、すごい力を引き寄せますね。
今からでも、自分ができること大切にしたいと思いました。