哲学の日
紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなった。
アテナイ(現在のアテネ)で活動し、対話をつうじて相手に無知(無知の知)を自覚させようとした。しかし市民には受け入れず、告発されたのちに死刑判決が下された。弟子たちが脱獄をすすめるも、「悪法も法」だといい、みずから毒杯をのみました。
死刑判決が下るまえのことを書いた「ソクラテスの弁明」。それまでに言ったことを曲げたり、自身の行為を謝罪することは決してしませんでした。
死刑当日まで猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡や亡命をすすめられ。同情する者の多かった牢番は、いつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否しました。
ソクラテスが、みんなに伝えたかったこと。
哲学というだけで、距離をとってしまうかたもいると思いますが、少し知るだけでも変化を与えてくれるきっかけになります。
今日は、ほんの少しだけふれてみようと思います。
活動
ソクラテスがおこなった活動については、次のように述べられています。
彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになります。
さらに、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」。
「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになりました。
これを広めるため、「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことや極貧生活もいとわずに歩きまわり、出会った賢者たちの無知を指摘する活動をおこなっています。
言っていることが正しくても、指摘されていい気持ちになるひとは少ないと思います。
それなりの立場であればなおのこと。「何様のつもりだ」と言われそうですよね。
でも、謙虚な心をもち、プライドとうまく向き合うことができるほうが成長できる気がします。
「教えてくれてありがとう」
そう言えるひとでありたいです。
弁明
「ソクラテスの弁明」のうち、特に刺激を受けた、ほんの一部を記載します。
私は高齢ゆえに、もとより余命は短い。諸君はその自然死を待たずに、賢人ソクラテスに死罪を宣告したという汚名と罪過を引き受けた。私は弁明をしたが、命乞いをしなかった。弁明を果たして死罪を与えられるほうが、命乞いをして死罪を免れるよりも優れている。
実のところ、死から脱することよりも、悪から脱することのほうが厄介である。強壮で迅速な私の告発者たちは、同じく強壮で迅速な邪悪に追いつかれた。真理から賎劣と不正との罪を宣告されて、この場を退場する。
私は予言する。諸君が私に課した死刑よりも、遥かに重い罰が諸君の上に振りかかるであろうことを。他人を殺すことで自分の独善のぶざまなさまを非難されずに済むと思うことは間違っている。このような逃げ方は成功しないし、立派でもない。立派で簡単なことは、他を圧伏することではなくて、可能な限り善良になるように心掛けることである。
私に対して無罪投票をしてくれた諸君とは語り合いたい。私の個人的な神霊は、私が少しでも曲がったことをしていれば、それを諫止(かんし:いさめて思いとどまらせること)する。ところが今回の弁明において一度の諫止も無かった。私は何をその理由と考えているのか、それを諸君に話そう。今般の私の身に降りかかった死罪はきっと善良なことである。死を凶禍(きょうか:わざわい)と信じる者は間違っている。この死罪が幸福なものでなければ、神霊が諫止しないはずはなかった。
死は一種の幸福であるという希望には有力な理由がある。死とは、虚無に帰するものか、あるいはこの世からあの世への霊魂の移転なのか、いずれかであるべきだ。前者であれば、死は安らかなる熟睡よりも遥かに安らかなるものであり素晴らしい。後者であれば、あの世にて誰が賢者なのか、また誰が賢者顔をしながら実際そうではないかを確かめることを私の仕事として続けられるので幸福である。
善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こりえないこと、また神々も決して彼のことを忘れることがないこと。この一事こそ真理と認めることが必要である。したがって私は、私に有罪を宣告した人々に対しても、私の告発者に対しても少しも憤りを感じていない。
諸君、私の息子どもが成人した暁には、いやしくも彼らが徳以上に蓄財その他のことに念頭に置くように見えたならば、彼らがそうでもないくせに、ひとかど人間らしい顔をしたならば、私が諸君にしたのと同じように非難してやってほしい。
私は死ぬために、そして諸君は生きながらえるために、去るべき時がきた。我ら両者のうちでいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神よりもほかに知る者はいない。
いかがでしたか。何か少しでも感じるものがあれば幸いです。
この内容もかなり古いものであり、本人ではなく弟子のかたが書かれているものですが、学びをえるためには関係ないと思います。
いずれにしても、自分がどう理解して活かすか。ソクラテスの生涯を正しく知りたいという目的でなければ。
このように、出会えることがないひと。時代のまったく違うひとと本をつうじて関われることは感謝しかありません。
もし興味をもたれたひとがいれば、それもまた幸せです。