今日は、ペリー上陸記念日。
1853年の7月14日(旧暦嘉永6年6月9日)、アメリカの4隻の黒船艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸して将軍への親書を渡した日。
当時の将軍であった第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていたため、幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求。ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げました。
その半年後くらいにあたる、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来航。
ペリーは将軍家慶の死を香港で知ったため、混乱の隙を突く考えだったようです。
突然の来航に驚いたものの、前回の来航のとき同様にアメリカ側だけでなく、日本の幕府側も敵対的な行動をとることはありませんでした。
アメリカ側は船上で、日本側の使いにフランス料理をふるまうなど。お互いが料理などで歓迎したようです。
そして、さまざまな協議がおこなわれた末の3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸。歓待を受けるとともに交渉を開始。全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、日米合意は正式なものとなりました。
3代将軍徳川家光の時代から、200年以上続いてきた鎖国が解かれました。
その後、ペリーは航海記「日本遠征記」をアメリカの議会に提出。わずか4年後の1858年に63歳で死去しています。アメリカは南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失いました。このため日本との関係はイギリス、フランスやロシアが強めたうえ、清に対する影響力を拡大することになります。
ここまでの歴史を振り返っただけでも、日本の大きな前進や、海外とのつながりを感じることができますよね。
そして現在。引き続き、お互いのためになる交渉がおこなわれています。
やはり今は、オリンピック関連でしょうか。
何が正しいのか。正しくないのか分からないものも多くありますが。人の命を守ることが一番大事であることに変わりはありません。
バッハ会長が「一番大切なのは中国人」と日本人と言い間違えたことも話題になっていますが。
いずれにしても、守る命に優先順位などないと思います。
ひとりでも多くの命を守れるように。
私たちの力が及ばないところは「それぞれの代表になっているかた」が。
自分にできることは「自分自身」で。
大切な命を守る行動を大切にしていきたいですね。
コロナも、黒船が来た時と同じように。
始めは不安で、恐ろしい存在だったけれど。
明るい未来を運ぶ船に。一日でも早くなってほしい。
コロナで大変だったけれど。それがきっかけで生まれたものに感謝できるときは、きっと訪れると願っています。